先日のこと。
駅から自宅方面へ歩いていた時のことだった。
中学生らしき男の子たち5,6名が自転車に乗りながら自分とは逆方向に進んでいるのをみた。
その内の1人が歩道から車道側に飛び出しながら、ふらふらと走っていた。
幸い、車道に自動車は走っておらず、少年は事故にあうこともなかった。
車道に飛び出したのは酔っているからではなく、故意によるもの。
はははっ、なにやってんだよ。
そんな会話が聞こえた。
きっと中学生なのだろう。
他人がやらない行動をすることに美徳を感じるのかもしれない。
そんな少年たちの1人が発した言葉がすごく気になった。
「世間の目に注目されてるぜ」
その通りは人通りの多い駅前の歩道だったこともあり、多くの往来があった。
少年たちはその往来たちに注目されていると感じたのだろう。
おそらくだけど。
注目されることもきっと美徳なんだろうと思う。
確かに普段は車通りの多い車道にふらふらと飛び出して、悠然と歩道に帰還したその行為はなにやら勇気が必要な行為に思えないこともない。
でもふと思ったことがあった。
何を言ってるんだ、彼らは。
誰も彼らに注目していないのではないか。
確かに彼ら少年は、非常識な行為を行った。
そして通常だったら、確かに世間に注目されるのかもしれない。
だけど、その時の彼らを気にする人は自分以外にいなかったのではないだろうか。
よく言うような無頓着というか、無関心。
これを強く感じた。
ばかやろー、あぶねえだろ。
罵声を浴びせる親父さんもどこにもいなかった。
自分を淡々と見ていただけだった。
とても肌寒い思いをしてしまった。
それとともに世間ってどこまでだろうとも思った。
世間 - Wikipedia
世間とはもともと仏教用語だったとか。
語源はとにかくとして、このような記述があった。
『世間とは、自分と利害関係がある相手、もしくは将来的に利害関係が発生する可能性がある相手を指す。』
利害関係者という言葉に強く惹かれた。
なるほど、利害関係者を世間と呼ぶのか。
なんとなくイメージしていた世間が、以前よりも形作られた。
だから彼らの言葉に引っかかったのだ。
少年の1人が「世間の目に注目されてるぜ」と言い放ったが、往来には彼らとの利害関係者は一切いなかったことだろう。
彼らのような中学生の世間は小さい。(これは自分自身の経験からの予想だが)
つまり彼らの言わんとしていた世間とは、その場にいる少年たち自身であり、その親兄弟や同じ中学生たちなのだ。
そして往来は彼らの世間ではなかった。
だから「注目されてるぜ」の言葉に反して、往来の人々が注目していなかったとしても、まったく問題ないわけだ。
世間は小さいとよく言うが、確かに利害関係者だけだったら多くの人の世間は小さいだろうな。
自分の世間も小さい。
小さいと大きい。
どちらがより望ましいのか。
世間の大きさは自身の責任の重さに比例しているように感じる。
利害関係者の増大は、責任の増大につながるはずだからである。
そう考えると、現在の自分としては、責任の小さい、世間が小さい人間でいたいと思う。
将来は大きい世間の人間になりたいものではあるが。
年末だし、掃除をやらなくてはいけない。
がんばろう。
世間の目に注目される
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