Archive for 12月 2012

ホビット、海の上のピアニスト

ホビットを鑑賞した。
映画『ホビット 思いがけない冒険』公式サイト

IMAXの3Dで見てきた。
迫力の映像美は本当に素晴らしいと思う。
IMAXだからこれだけ綺麗で迫力があるのか、それともIMAXでなくてもこれだけのものなのか。
どちらであるのかは分からないが、とにかく迫力があったし、3Dも上手く生かされていたと思う。

ファンタジーものは好きなので、やはりこのホビットも楽しむことができた。
ロード・オブ・ザ・リングから何年たっただろうか。
このホビットを鑑賞した後は、ロード・オブ・ザ・リングを再び見たくなった。
フロドの冒険を見たいものだ。

このホビットは1作で完結するものではなかった。
2部で完結するのではないだろうか。
友人は3部作といっていたが、どちらが正しいのかは定かではない。
とにかくこの映画は3Dで見て非常に楽しめるものだった。


海の上のピアニスト。
海の上のピアニスト - goo 映画
原題、The Legend of 1900は自宅で観賞した。
欧米を行き来する船舶上で誕生した主人公。
船上で生まれ育ち、やがて音楽とピアノに出会う。
彼が演奏するピアノは神がかっており、聞く人の心を魅了していた。
そんな主人公の海の上での生活を回想録として描いた作品。
ラストまですうっと流れるような展開で、魅せられた。
どんなことであれ、自分だけの1つのものを持つってことは素晴らしいと感じるし、同時に1つのものを極めることがいかに難しく、自分が何も持ってないことを痛感させられる。
小さい頃に、自分もピアノを習っていたらな、と思わなくもない。

世間の目に注目される

先日のこと。
駅から自宅方面へ歩いていた時のことだった。
中学生らしき男の子たち5,6名が自転車に乗りながら自分とは逆方向に進んでいるのをみた。
その内の1人が歩道から車道側に飛び出しながら、ふらふらと走っていた。
幸い、車道に自動車は走っておらず、少年は事故にあうこともなかった。

車道に飛び出したのは酔っているからではなく、故意によるもの。
はははっ、なにやってんだよ。
そんな会話が聞こえた。
きっと中学生なのだろう。
他人がやらない行動をすることに美徳を感じるのかもしれない。

そんな少年たちの1人が発した言葉がすごく気になった。

「世間の目に注目されてるぜ」

その通りは人通りの多い駅前の歩道だったこともあり、多くの往来があった。
少年たちはその往来たちに注目されていると感じたのだろう。
おそらくだけど。

注目されることもきっと美徳なんだろうと思う。
確かに普段は車通りの多い車道にふらふらと飛び出して、悠然と歩道に帰還したその行為はなにやら勇気が必要な行為に思えないこともない。
でもふと思ったことがあった。

何を言ってるんだ、彼らは。
誰も彼らに注目していないのではないか。


確かに彼ら少年は、非常識な行為を行った。
そして通常だったら、確かに世間に注目されるのかもしれない。
だけど、その時の彼らを気にする人は自分以外にいなかったのではないだろうか。

よく言うような無頓着というか、無関心。
これを強く感じた。

ばかやろー、あぶねえだろ。

罵声を浴びせる親父さんもどこにもいなかった。
自分を淡々と見ていただけだった。
とても肌寒い思いをしてしまった。

それとともに世間ってどこまでだろうとも思った。

世間 - Wikipedia
 世間とはもともと仏教用語だったとか。
語源はとにかくとして、このような記述があった。
世間とは、自分と利害関係がある相手、もしくは将来的に利害関係が発生する可能性がある相手を指す。

利害関係者という言葉に強く惹かれた。
なるほど、利害関係者を世間と呼ぶのか。
なんとなくイメージしていた世間が、以前よりも形作られた。
だから彼らの言葉に引っかかったのだ。

少年の1人が「世間の目に注目されてるぜ」と言い放ったが、往来には彼らとの利害関係者は一切いなかったことだろう。
彼らのような中学生の世間は小さい。(これは自分自身の経験からの予想だが)
つまり彼らの言わんとしていた世間とは、その場にいる少年たち自身であり、その親兄弟や同じ中学生たちなのだ。
そして往来は彼らの世間ではなかった。
だから「注目されてるぜ」の言葉に反して、往来の人々が注目していなかったとしても、まったく問題ないわけだ。


世間は小さいとよく言うが、確かに利害関係者だけだったら多くの人の世間は小さいだろうな。
自分の世間も小さい。
小さいと大きい。
どちらがより望ましいのか。
世間の大きさは自身の責任の重さに比例しているように感じる。
利害関係者の増大は、責任の増大につながるはずだからである。
そう考えると、現在の自分としては、責任の小さい、世間が小さい人間でいたいと思う。
将来は大きい世間の人間になりたいものではあるが。


年末だし、掃除をやらなくてはいけない。
がんばろう。
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原産国効果の世代間のギャップ

原産国効果の世代間の違いに注目した研究は行われていないようである。
ただし、研究として世代間で違いがあったという結果は出ている。

Schooler(1971)によれば、35歳より若い層と50歳以上の層で違いが出ている。
その違いは、 高齢層のほうがより低く他国の原産国効果が働いているというもの。

実際に日本の消費者へアンケートを実施した結果として、Schoolerと同様に世代の間で有意差が得られた。
20代前後、50代前後、70代での3世代に渡るアンケートでその結果が得られたわけである。
結果としては、高齢層のほうがより低く他国の原産国効果が働いているというものだった。
複数製品において調査を行ったがいずれもほぼ同様の結果が得られた。
このことから、高齢層ほど原産国効果がマイナスに働くという事が言える。

なぜこのような結果になったのか。
その考察が求められる。

調査前の仮説では、高齢層ほど原産国効果がプラスに働くものと考えられた。
何故ならば、かつては海外製品は「舶来品」とも呼べれ、高品質、高価格のイメージがあったはずだからである。
しかし調査の結果はその仮説を裏切るものだった。

原産国効果を与える要因として、原産国へのステレオタイプ的イメージが存在する必要がある。
例えば全く他国への情報を持たない乳幼児などに評価をしてもらうことが可能だとしても、そこに差は現れないだろう。
また仮に宇宙人が存在するとして、彼らに原産国効果が働くかどうかを考えても、働くとは到底考えられない。
そこには原産国に対するイメージが存在していないからである。

では原産国に対するイメージを形成するものは何なのか?
そもそもイメージを形成する要因は何なのか?

イメージの形成に影響するものとして、経験が考えられる。
例えば海外旅行をした時に、旅行先でとてもいい経験をした場合、その国に対するイメージはプラスとなり、結果としてその国の原産国効果もプラスに働きうるのではないだろうか。
同様に悪い経験をした場合は、マイナスに働くことと予想できる。

つまり世代間で原産国効果に違いがあるのは、そもそも経験が違うからだと言える。
しかし世代間ではっきりと違いが現れたということは、その経験が局所的な経験ではなく、世代間で広く経験しているものではならない。
そうでなければ、世代間ではっきりと差がつくものではないからだ。

思いつくものとしては、まずは戦争経験があげられる。
従軍経験である。
第二次大戦時に10歳前後だった層を考えると、現代では80歳前後となる。
これは調査対象に当たる70代の世代に当てはまる。
つまり戦争相手国へのイメージは悪いものとなるのではないか。
しかし、枢軸国側であるドイツ、イタリアに関するイメージも低い結果だったのである。
一概に戦争経験が影響しているとは言えないのではないか。

続いて想像しうるのは日本の成長を経験したかどうかである。
日本は大戦後、高度経済成長を経験し、大きな経済成長を遂げた。
世代間で、その経済成長の経験年数や成長度合いも異なってくる。
経済成長の経験年数と、原産国効果のマイナス度合いは相関関係にあるように考えられる。

また近年顕著な例として、インターネットの進展がある。
従来の4大マスメディアに加え、近年ではインターネットの消費者への影響は強くなっている。
総務省の通信利用動向調査によると、インターネット利用率は60代以上になると急激に減少している。
すなわち若い世代はインターネットによる情報を経験しているが、高齢層はその情報を経験していない。
テレビ視聴に関しては、どの世代は高い視聴率を誇っている(90%以上)。
ただし新聞に関しては、若年層は高齢層に比べて圧倒的に読んでいないことがわかる。
高齢層ほど原産国効果がマイナスに働いたことを鑑みると、インターネットでは他国に対して比較的プラスの情報が、新聞では他国に対して比較的マイナスの情報が発信されているのではないだろうか。
もしくはインターネットではより自由度の高い情報取得が可能であり、新聞に比べて他国の情報をより広範に取得することができる。
他国の情報に触れることで、原産国効果もプラスないし、無影響にシフトするのではないだろうか。

これらのことから考えると、原産国効果がマイナスに働いた高齢層の背景として2点のことが挙げられる。
1つ目は自国の経済成長を経験していること。
2つ目はインターネットを利用していないこと。

上述の2つは事実として存在しているが、その存在がいかようにして影響を与えたのかを更に考察する必要が残っている。

もったいない

「もったいない」

いつかのシャープのCMで、「もったいない」はエコの始まり、のようなものがあった。
「もったいない」という単語自体は良いも悪いもないと思う。

でもこの単語を他人から言われるとイラッとくる。
尊敬している相手からの「お前、もったいない」という言葉だったら素直に受け入れることができるけど、尊敬していないとは言わないものの、自分と同レベルで、強い尊敬も抱いていないような相手から言われると、苛つくものがある。

なぜか。
尊敬している人の場合は大概のことを素直に聞き入れやすいのでここでは割愛する。

同程度の人に言われるといらっとしてしまう。
同程度の人が自分ではないにしろ、同程度の人に言っているのを聞くといらっとしてしまう。
これは「型にはめる」行為・意思を感じてしまうからだ。

「もったいない」とは欠如している部分があるからこそ出てくる単語であろう。
だからその欠如をなくせばもっとよくなるよね、という励行だろう。
その欠如している部分を見つけるためには、こういう形が理想だという「型」があるはず。
そしてその「型」っていうのは人それぞれ理想の物を持っている。
その理想は自分がなりたい型であると想う。

「もったいない」を使う人は、型に関して2パタンの考えをしている人がいるように感じる。
1つ目は自分の型をそのまま相手に適用する。
2つ目は相手に合っていそうな型を適用する。

2つ目はおせっかいと感じる場面もあるかと思うが、少なくとも相手を観察して、こういう型がいいのではないかと考えている。
しかし1つ目の場合は自分の理想の型を至上のものと勘違いしているように思える。

至上のものと勘違いしている、というと大げさかもしれないが、自己陶酔もいいところのように思う。
お前は何様なのだ、と罵りたい気持ちが生まれないこともない。
自分自身を世間に一般化し、それを他人にも押し付ける行為、気分の良いものではない。

おそらくだがこのように自分の理想の型を相手に強要するような輩はごく少数だと思う。
しかしごくたまにそんな輩に出会ってしまうと不運だ。
そして抱く必要もない不満感のようないらだちを覚えてしまう。

このように考えてくると、宗教ってそれに当てはまる気がする。
理想の型を提示し、それを目指ささせるわけだ。
すべての宗教がそうだとは言わないが、そういう教えも存在している、ように思える。
だから自分は無宗教なのかもしれない。

とにかく、自分自身としては「十人十色」、「百人百様」が好きなんだろう。
そういう再認識。